モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番&第21番
![]() |
優雅、優雅、優雅 |
弾き振りってカッコ良くやる人多いんですが、CDで聴く限りは、派手なパフォーマンスを伴うような指揮ぶりではなかったと感じます。
とにかく、ものすごく優雅。21番のアンダンテなんか特にそう。
ポリーニにはずっと禁欲的な印象を受けてきたけど、この録音は思い切り甘くやってみました、みたいな感じ(時々、うなり声が入る?のはご愛敬)。
それにしても、ベーム指揮のWPOで録音された第23番&第19番からもう30年もたってしまったんですか…。ポリーニは合わせものがうまかったベームの指揮法をどこかで受け継いでいるのかもしれません。
![]() |
本格的で本来あるべき姿にあるモーツァルト |
本当に久しぶりのポリーニのモーツァルトである。以前、ベーム指揮ウィーンフィルと録音した19番と23番があったが、それも数十年前の録音なので、ほとんど新鮮な感覚でこの新譜に接した。本盤は2005年、ライヴ録音である。17番と21番という選曲もポリーニの資質が活きそうで、いいと思う。
ポリーニのモーツァルトをあらてめて聴いてみて、「教科書的」という言葉が頭に浮かんだ。「教科書的」という言葉は、なぜか悪いイメージを持たれることがある。類型的ということだろうか。だが「本来あるべき姿の」という意味でもあり、ここではそういう意味である。そもそも「教科書的」という言葉を批判に用いるのは、あまり感心しない。世の中のトリッキーなことや、人と変わった奇抜なことに特有の価値があることはわかるが、それはあくまで対価的なものである。本来の姿である「教科書的」なものごとが絶対的な価値軸としてあって、はじめて「それと違う」ことに価値が生じるのであり、その主従関係はある程度きちんとしておいた方がいい。そうであって初めて「奇」も評価することができるようになるだろう。
さてポリーニのピアノであるが、元来この人のピアノはモーツァルト向きである。適度に鋭角的で、響きを交わらせることなく、それらを平行に聴き手の耳にまっすぐ運ぶ技術は、真にモーツァルト演奏において重く置きたい価値である。これらのライヴ録音でもそれがしっかりでており、造形的な均一さと音色の完璧さでモーツァルトの無垢な美しさがまっすぐに私達に伝わってくる。そのラインの上で気品ある歌がそっとそえられていることが好ましい。さすがという演奏である。
また、ポリーニの指揮にも注目してみた。簡潔で大人しい指揮と感じるが、意外と中声部の扱いが柔らかく、時折ねばるところもある。これはウィーンフィルの音なのだろうか。ともあれ興味の尽きない1枚となった。
![]() |
軽妙、柔和。ポリーニに対するイメージを大きく覆される1枚。 |
輸入盤で一足早く聴いています。今回の録音、「柔」か「剛」かでいえば、明らかに「柔」寄りの演奏でしょう。ピアノ、オケともに、羽毛のように柔らかく軽く、そして肌触りの良い演奏、といった印象です。ソロの装飾なども、技巧の誇示よりは洒脱さを全面に打ち出したもので、普段のポリーニの印象とは大きく異なる、洒落っ気や優しさが全曲を通じて感じられます。オケ・パートは小編成ながら、古楽奏法は非使用で、オーソドックスな伴奏に徹しています。
21番では、生真面目なピアニストが装飾を加える際に陥りがちが「取って付けた感」もなく、実にスムーズ、喉越しさわやかな演奏、といった印象です。終楽章などは大変な高速テンポですが、マシンガンのような乱暴さはまったくなく、絶妙な音色・音量コントロールで、独特の軽妙さをもって駆け抜けています。17番では、第1楽章のカデンツァだけは例外的にいつものポリーニらしい剛直さがありますが、他はやはりソフトタッチ。ポリーニに対するイメージを大きく覆される1枚でした。
カデンツァは17番がモーツァルト作、21番は現代作曲家・シャリーノ作のものを使用。バランス・エンジニアにはクラウス・ヒーマンが起用され、演奏内容にマッチした自然な録音になっています。ポリーニの録音の一部にあった、ピアノの極端なクローズアップは、今回はありません。オケとピアノが自然に融合した好録音だと思います。



