2006年はモーツァルト生誕250周年!

♪モーツァルトの逸話

神童エピソード  
 

初めての作曲が5歳の時。
「クラヴィーア独奏のためのアンダンテ ハ長調K.1a」
「クラヴィーア独奏のためのアレグロ ハ長調K.1b」

4歳か5歳の頃、父の友人の弾くバイオリンの音が8分の1音低いと指摘。
(8分の1音とは、半音をさらに四等分した音の高さ。もちろん、普通の人にはほとんど分からない音)

9歳の時、誰も気づかない譜面の間違いを一目で指摘。

14歳の時、イタリアのシスティーナ礼拝堂で門外不出のアレッグリ「ミゼレレ」を一度聞いただけで、正確に譜面を書き写すことができた。

耳が良すぎたせいか、小さい頃はトランペットの音が大嫌いで、聞くと倒れてしまうことも。

ヴァイオリンの初歩も習ったことがなかったが、演奏をきいただけで、正確に第2パートを演奏し、父は驚きの涙を流したそうな。

   
様々な作品
  作曲スピードが早く、上演に3時間以上かかる長いオペラを数ヶ月で完成させてしまう。

オペラ「ドン・ジョバンニ」は、演奏会前日にまだ序曲ができあがっておらず、真夜中12時過ぎから作曲を始めたが、3時頃には眠ってしまった。しかし、翌朝7時に妻が目を覚ました時にはすでに出来上がっていたという。

「音楽の冗談」という曲では、わざと間違った音を入れて笑わせるユーモアも。

バイオリン二重奏曲の中に、逆さまにしても演奏できる譜面があるが、これは二人のバイオリニストが1枚の譜面を挟んで同時に合奏できるようにしたもの。
   
貧困なモーツァルト
  家賃を払うことさえできず、友人のプフベルクに1415グルデンの借金があった。(現在のレートで500万円を超える金額)

なぜこんなに金銭的な危機があったのか、真相は解明されていない。モーツァルトの遺品からは、裕福な生活が推測できる衣装や調度品もあり、高級住宅に住み、馬を所有し、ビリヤードにも興じてたという。
   
旅好きモーツァルト
 
ミュンヘン 1762年1月12日〜2月はじめ
ウィーン 1762年9月18日〜1763年1月5日
パリ−ロンドン−アムステルダム 1763年6月9日〜1766年11月29日
ウィーン 1767年9月11日〜1769年1月5日
イタリア 1769年12月13日〜1771年3月28日
イタリア 1771年8月13日〜12月15日
イタリア 1772年10月24日〜1773年3月13日
ウィーン 1773年7月14日〜9月26日
ミュンヘン 1774年12月6日〜1775年3月7日
マンハイム−パリ 1777年9月23日〜1779年1月中旬
ミュンヘン 1780年11月5日〜1781年3月16日
*3月16日よりウィーンに移住
ザルツブルグ 1783年7月末〜11月末/12月初め
プラハ 1787年1月8日〜2月12日頃
プラハ 1787年10月1日〜11月16日頃
ベルリン 1789年4月8日〜6月4日
フランクフルト 1790年9月23日〜11月10日頃
プラハ 1791年8月24/25日〜9月中旬

モーツァルトおもしろ雑学辞典

   
五カ国語を習得
  イタリア語
ドイツ語
フランス語
英語
ラテン語
   
謎の使者
  正体不明の男がモーツァルトに死者のためのミサ曲「レクイエム」の作曲依頼をしているが、この依頼主はモーツァルトの死後に判明している。それは貴族のヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵という人物で、彼は創作的な才能がないので、作曲家の作品を購入し写譜して使用するという方法をとっていた。

モーツァルトの「レクイエム」は未完だったが、弟子のジュースマイヤーが補筆完成させたが、ヴァルゼックは1793年12月に近郊のウィーナー・ノイシュタットで「レクイエム」を演奏し、オーケストラ総譜に「ヴァルゼック伯爵作のレクイエム」と直筆でサインを残している。
   
モーツァルトの死
  死因は未だに不明。毒を盛られたという説もあったり、腎臓病、尿毒症、リューマチ性熱とも言われている。ウィーン市にある正式な死亡証明書には、死因:粟粒疹熱(敗血症)と記入されている。

参列者もなく共同墓地に埋葬されたため、墓所は不明となっている。
   
ケッヘル番号
  モーツァルトの作曲は、オペラ、交響曲、協奏曲、ミサ曲、ピアノ曲、室内楽曲、歌曲など600曲以上にものぼるため、モーツァルトの死後70年ほど経って、ケッヘルが年代順に通し番号をつけた。もちろん、ケッヘル1(K1)は5歳時に作曲したメヌエットとなる。
   

 

♪生誕100周年を記念して作られた王宮公園のモーツァルト像

   モーツァルト像

 

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